Mac生誕40周年。人々を徐々に変えていった稀有なマシンのこと(CloseBox)

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松尾公也

テクノエッジ編集部 シニアエディター / コミュニティストラテジスト @mazzo

特集

Macが40年になったからなんか語れというお題をIttousai編集長からもらったので、Macとの関わりについてちょっと考えてみました。1990年代にMac雑誌を2つ創刊した経験があるので、まあ資格としてはあるかな、と。

ジェネラルなお話や、開発した人々のストーリーは語られ尽くしているし、オリジナル開発チームによる秘話(Commandキーを追加したのはダグラス・エンゲルバートからパワーユーザーにとっても使いやすくするようにというアドバイスでキーボードショートカットを思いついたビル・アトキンソンのアイデアであるとか、1984のCMを取締役会で上映したときにその中の一人が怒りのあまりデスクを叩き続けていたりとか、面白すぎエピソード満載)はComputer History Museumの40周年記念イベント動画を見てもらえばいいと思うので、今回はMacintoshとの関わりについて個人的な話をしたいと思います。そういえば、Computer History Museum、ずっと違和感があったんです。1993年ごろにボストンに似たようなのあって訪れたことがあったよな、と。それが移設されていたんですね。

▲左から、デビッド・ポーグ(ジャーナリスト)、ビル・アトキンソン(QuickDraw、HyperCard)、スティーブ・キャップス(GUI、Newton)、アンディ・ハーツフェルド(システムソフトウェア)、ブルース・ホーン(Finder、リソースマネジャー、DA)、スーザン・ケア(アイコン、フォント)

Macintoshとの出会いは1983年

Macintoshとの最初の出会いはおそらく発売1年前の1983年くらいだったでしょうか。当時、自分が最初に勤めた電機系新聞の外信部(海外情報の記事を書くところ)で、海外のエレクトロニクス紙の翻訳をやっていました。そこで、アップルがLisaに続くマシンを開発中だという記事の翻訳を担当します。まだ正式な発表が行われる前の噂話を伝えるその記事の中ではMcIntoshとかMacIntoshといったスペルだったはず。McIntoshは有名なオーディオブランドですからそのスペルはありえないわけですが……。AppleはApple IIIで失敗し、Lisaも販売が不調ということで、小型の次世代機に期待を寄せてるとかなんとか、そんな感じだったと記憶しています。当時はアスキー、I/O、RAM、マイコンといった雑誌を購読していたので、周辺情報も得ていました。

それが翌年の1984年1月25日に正式発表され、そこでマウスとグラフィカルユーザーインタフェース(GUI)を持ったマシンとして大々的に売り出されます。

しかし、自分を含めて当時のマイコン・パソコンマニアたちからはあまり高い評価が得られませんでした。なぜか?

当時のトレンドは既にカラーグラフィックスに突入しており、精密な描画ができる解像度と色数だったからです。Intelの8088/8086 vs. Motorola 68000といったプロセッサの優劣を競うような話もありましたが、なにせ初代Macintoshはモノクロで階調すらない(グレイスケールではない)512×342ピクセル。グラフィックスカードを拡張できるIBM PC、最初から640×400ピクセルの高解像度なPC-9801といった16bitパソコンのライバルたちとは比較になりません。GUIとマウスにしても、AppleはすでにLisaがありましたから、それほど強いインパクトはありませんでした。

この頃のMacintoshは、キヤノン販売がゼロワンショップというコンピュータ専門店を全国展開していて、ショップに置かれていましたが、自分としてはそこに展示されていたApple ][cの、後のノートPCのようなスリムなスタイルの方に興味を惹かれていました。それでも買う気にならなかったのは、Apple ][シリーズが高い割には解像度が低くて色数が貧弱だったからでした。

▲その後、中古で手に入れたApple ][cとApple純正ディスプレイ

Macintoshの魅力を筆者に最初に教えてくれたのは、米国のシンクタンクに勤務経験のあるアナリストで、当時の上司であった彼はプレゼン資料をMacを駆使して作るんだと楽しげに語っていました。高額なマシンですが、特定領域で魅力があるのはなんとなく理解しました。それが1985年くらいのことです。

Macintosh Plusを買って転職

1986年にコンピュータグラフィックスの専門誌に勤務するようになると、同僚にもMac好きが現れます。彼がMACLIFEというMac専門誌に転職したことから、「Macを持っていれば一花咲かすことができるのでは?」という考えが浮かんできました。この頃になるとスティーブ・ジョブズはすでに追放されており、ジャン=ルイ・ガセーが主導したとされるMacintosh IIが初めてのカラーMacとして登場しますが、相変わらず高すぎて手が出ません。

1987年に長男が生まれます。その出産祝い金が出たので、それを当時安くなっていたMacintosh Plusの購入に充てます。買ったのは秋葉原のイケショップ。一緒にJasminの20MBハードディスクも買ってSCSIで繋ぎました。その前に購入したPC-9801VX2でローランド「ミュージくん」というMIDIシステムを使っていたのですが、しょせんはMS-DOSマシンの限界で演奏できる音数が不足したため、4MBもの広大なメモリ空間を使えるMacで、さらにトラック数も多いPerformerなるソフトを使いたかったからでもあります。こちらは別の音楽系専門店で。それはともかく「Macが使えて英語ができてコンピュータのことがわかる」というアピールポイントで自分も転職を果たします(4社目)。

▲筆者と息子とその出産祝い金で買ったMacintosh Plus

当時、MacintoshによるフルDTPで週刊タブロイドスタイルのPCビジネス専門誌を作ろうとしていたソフトバンク(当時は日本ソフトバンク)に入り、PC WEEKの創刊を担当。

当時は写植が中心だった雑誌の制作現場は大きな改革を経験しようとしていました。ソフトバンクに入ると、まだレアスキルだった「Macを使える=DTPができる」という扱いで、DTP革命の最初の船に乗ることができたのです。当時の編集部のマシンはMac SE/30とIIci、IIcx。テキスト入力にはPC-9801を使うようにということになってましたが、自分はMacでテキスト入力からやってました。記事をテキストエディタで書いてQuark XPressに流し込む手間が惜しいので、直接Quarkに記事を打ち込んでいました。ちなみにまるでコンピュータに疎かった当時の編集長は、98をフロッピーで動かしていました。

▲Macintosh IIciにはPortrait Displayをつないでいた

Macを使ったフルDTPの雑誌を立ち上げ、Mac専門誌を創刊

しばらくすると、Macの月刊誌を立ち上げる話が持ち上がります。米国のテック系出版社Ziff-Davisと提携していた関係で、MacUserの日本版という形です。PC Magazine(パソコンマガジン)、PC WEEKと、Ziff-Davisの日本版を経験していた自分が創刊編集長を務めることになりました。本当はもっと適任者がいたのですが、ライバルであるMacworld日本版の方に行ってしまったという背景もあります。

MacUser日本版を創刊したのは1993年。創刊号では、デモ版として借りたはずのソフトが、先方が渡してきたのは機能制限がなかったのが後で判明。パッケージ状態ではないものだからこちらは先方の言葉を信じてしまったのですが、その証拠品をうっかり返却してしまったのものだからさあ大変。新聞にまで取り上げられる事態になり、さらには回収と散々な目に遭いながらも媒体としては最後まで全うすることができました。

その後、Beginners' Macという初心者向け雑誌も創刊しましたが、途中でMacUserに吸収。最終的には米国MacUserがライバルであるMacworldに取り込まれることになり廃刊。じゃあ有料のメールマガジンをやるかと思い立ち、Macintosh WIREという媒体を立ち上げます。これが母体の一つとなってオンラインメディアZDNet/Japanとなり、現在のITmediaに至るという感じです。この辺りの経緯については、同じCloseBoxのITmedia版で書いているので興味のある方はお読みください

MacUserからMacintosh WIREに至るまでは、最初の方はともかくアップルにとって冬の時代でした。1993年といえば、Macworld Expo/BostonでNewton MessagePadが発表され、Motorola 68000系列からPowerPCへの移行計画も進み、大きな変革は実施されていましたが、舵取りをするCEOのジョン・スカリーが業績不振の責任を取らされて解任。後任の「ディーゼル」ことマイケル・スピンドラーはPowerPCベースのCHRP、PRePといった共通プラットフォームの展開でMac以外のコンピュータにも使えるよう進めていましたが、互換機メーカーの方が製品作りがうまくて本体業績にも悪影響を及ぼし、「互換機戦略をとればIBM PCのように大成功だぜ」といった目論見は崩れます。さらに低価格エントリーマシンであるPerformaの売り上げも崩れてしまいスピンドラーも失脚してギル・アメリオが立て直しに入ります。

一方でマイクロソフトはDECでVMSを作った天才エンジニア、デビッド・カトラーによりOSの根本的な改善(Windows NT)に取り組む一方で、Windows 95でUIを大幅に改良し、Macにキャッチアップどころか追い越して行きます。MacUserでは「どっちもコンピュータデバイスだからいいところを使い分けていこうぜ」というメッセージでWindowsやUNIXとのヘテロジニアス環境を構築する方法を連載したりしていました。

Webブラウザを最初に経験したのも、MacUserを立ち上げてすぐの頃です。伊藤穰一さんが富ヶ谷のオフィスでMac上で動くNCSA Mosaicを見せてくれ、「あなたの媒体ではインターネット対応をどうするんですか」と問われたのが最初くらいでしょうか。当時、ソフトバンクではネットへの移行を本格的に考えている人はまだごく少数で、そのうちの数人が中心となってYahoo!やZDNetを立ち上げていきました。

MacUserの頃には楽しいことがたくさんありました。ライバル誌ではあっても仲がよく、Macworld Expoでは一緒に遊んだり情報交換もし、毎年行われるアップル講演のバンド合戦「Mac'n Roll Night」に編集部で出演し、デーモン閣下と共演したりして二度の優勝を獲得しています。音楽系の取材の機会も多く、トッド・ラングレンにインタビューする機会を得られたのは中でも最高の体験でした。トッドは初期のMacintoshの広告にも出演していました。


▲トッド・ラングレンのサイン入りPowerBook 2400cは、IBM大和研究所による稀代の名作

インターネットの到来と冬の時代

一方、この頃のインターネットコンテンツはいったんデザイン性がそれほど必要とされなくなり、デザイン分野にはあったMacの優位性が失われていきます。特にインターネットサーバに関してはマイクロソフトのIISが優れていて、Internet Explorerの高機能と快適さと相まって「インターネットをやるならWindowsだよね」という認識が一般的になっていきます。ZDNet/Japanの主力デザイナーは最初からWindowsでデザインをしており、デザイン=Macが崩れつつあるのを実感しました。

最初からMacに足りないのはプリエンプティブマルチタスキングが可能な堅牢なOSであり、従来のOSを大幅に変えるしかない。しかし、そのための基盤開発は全くのダメダメ状態でした。それでも報道サイドとしてはアップルが言う「Copland」がある、というのを鵜呑みにしていたわけですが、実態はまともに動かないボロボロ状態だったわけです。

このままインターネット時代についていけないことが明確になったアップルは、スティーブ・ジョブズが追放された後に設立したNeXTを買収。おまけとしてついてきたジョブズを利用しようとしたギル・アメリオCEOは陰謀によって乗っ取られてしまいます(この辺の話はアメリオの自伝「アップル薄氷の500日」をお読みください)。

とあるMac互換機メーカーの社長さんと寿司を食っていたら、「PowerPCボードを提供してくれているIBMの人と話していたら、いきなり青ざめた顔で、スティーブ・ジョブズからストップがかかったというんですよ」「それで互換機ビジネスは有無を言わさず終わりです」という話を聞きました。ちなみにそのメーカーはその後すぐに倒産となりました。iMacの登場時にも同様の出来事がありました。従来のMacの販路が全て見直され、iMacを売れる店舗が制限されたのです。このためになくなったり、別ジャンルに転業した店も多いです。

▲発売初日に妻と買いに行き、愛用していたiMacだが、贔屓にしていた店では売られることはなかった

iPhone登場で再び編集へ

2000年代に入ると編集職ではなくなって、本業でアップルの動向を追うことはなくなったのですが、iPhoneの登場で事態は変わります。初代iPhoneを発売直後に手に入れていたおかげで、iPhoneを激推ししていたソフトバンクグループ全体の事業計画にちょっと関わるようになったのでした。あれやこれやあってまた編集職に戻って、定年を迎えて数年してからテクノエッジに参加したという次第(だいぶ端折った)。テクノエッジのこのコラム名は、MacUserの創刊号から場所を変えながら続けているものです。

その間には、iPadやiPhoneを楽器として使う、ガジェット楽器の分野でそこそこ活躍できるようになり、iPhoneとiPadをギター代わりに、テレビ出演や東京ドームでの演奏を果たすことにもなります。GarageBandの書籍も出しました。

▲バード電子で試作してもらった、iPhoneをギターのように演奏できるデバイス

Apple Vision Proにワクワクしない理由

その間にMacのエンジンはPowerPCからIntelへ、さらにIntelからApple Siliconへと代わり、iPhoneアプリがMacで動くようになり、さらに2月2日に米国で発売されるApple Vision Proは空間コンピューティングをうたいます。

でも、iMac、Mac OS X、iPod、iPhoneなどと比べ、今回はそれほどワクワクしてません。今いちばん自分を興奮させてくれるのはAIで、この分野でアップルはほとんど何もしていないに等しいからです。さらに、AIアプリを開発するためのコンピューティングプラットフォームとしても貧弱というしかありません。

Intelプラットフォームの時代からNVIDIAと袂をわかっていたアップルの戦略は、明確に間違っていたと考えていいでしょう。GPGPUとかCUDAの重要性とか考えなかったんでしょうか?

おかげで、AI関連で何か試すときには第一回AIアートグランプリの賞金としてもらったドスパラのゲーミングPCを使うことになります。ParsecというリモートデスクトップでMacからアクセスはしてるんですが。

▲メインマシンのM1 iMacから、GeForce RTX 4090のパワーを使う

とはいっても、人々が身につけるクライアントデバイスとしては、アップルはほとんどのパートで圧勝です。手で持ち操作するデバイスではiPhone、より大型な表示面積をもつタブレットはiPad、手首に装着するApple Watch、ヒアラブルデバイスのAirPodsと、人間のセンサーを取り込み、そこに情報を伝えるデバイスとしての勝負ではオセロの四隅を取っているに等しいものがあります。

他のメーカーはさらに細かいところを取ろうと、指輪だとかサングラス型とかのニッチを狙っていますが、大多数の人たちが使うのはそうしたカテゴリーではないはず。

Ai Pinやrabbit r1といった専用AIデバイスには興味を惹かれ、ワクワクさせられますが、センサー類を押さえているわけではないところがちと弱いです。



Apple Vision Proは視線情報という、これまでにはなかった精度による人間の意図を読み取る技術を持っているとされています。これがAIのマルチモーダルと直結すれば、これから無意識にやろうとしていることを先取りして情報を提示してくれる、AI支援によるアンビエントコンピューティングが可能になると思うのですが、今のところそうしたメッセージをアップルは出していません。Apple Siliconベースのデバイスで動作するスモールフットプリントなAIフレームワークについては去年のWWDCで出てくるかと予想していたのが見事に大外れ。今年こそは出てくるといいなと思っています。

いや、やっぱり欲しいぜApple Vision Pro

いや、こう書いていると、その方向はありうるな。やっぱりVision Pro欲しい、となってくるのが不思議ではあります。等身大の妻を印刷するための3Dプリンタの出費があったため購入はできませんでしたが、国内発売の時には必ず手に入れます。Paidyの長期分割払いで。長年の友人でMac最古参デベロッパーであるBasukeさんもApple Vision Proアプリを開発し、初日にApp Store並ぶことが確定したそうです。Basukeさんは開発者視点から見たApple Vision Proについて語る連載をテクノエッジで近々スタート予定なので、そちらもお楽しみに。

しかし、Macにしろ、iPhoneにしろ、Apple Watchにしろ、アップルはそれらの用途について明確なビジョンを持っていたわけではなく、可能性を感じ取ったデベロッパーやユーザーがその想像力によって発展させてきた部分が大きいです。だから、特定のマシンの登場で急激に変わるというのではなく、徐々に人々の生活を変質させていくのでしょう。

そんなわけで、これからへの期待を込めつつ、Macの40周年おめでとうございます。

《松尾公也》

松尾公也

テクノエッジ編集部 シニアエディター / コミュニティストラテジスト @mazzo

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